気まぐれエッセイ@メキシコ

不定期に適当な文章をつづっていきます(現在バヨ中心)

クラウス・コルドン短編集『人食い』

 クラウス・コルドンはドイツの作家。主にヤング向けの小説を書いてますが、歴史を題材にしたものも多く、大人が読んでも充分読み応えがあります。

 私が読んだのは、ベルリン三部作と自伝的作品2冊。どれも子供向けとは言い難い分厚さと内容で、前者はベルリンの1919年(ドイツ革命とワイマール共和国の誕生)、1933年(ナチスの台頭)、1945年(第二次大戦の終結)をある少年とその家族を通して描いたもの。後者の自伝は東ドイツから西に亡命しようとして捕まり尋問や拷問を受け、どうにか生き延びて西へ逃れるまで、そして西に亡命してからベルリンの壁崩壊まで、というかなり重い内容。単純に面白いとは言い難く、読むのに苦労しました(2冊合わせて1100ページってのも理由かも)。

 5年ほど前に、ドイツ語でなんか適当な読み物がないかなあと探していた母に、コルドンの短編集があるみたいだよ、と日本語のをプレゼントしたら、ドイツ語も欲しいねという話に(当然?)なり、これもドイツアマゾンで見つけたので日本に送って、読み終わったらこっちに回してね、と言ったきり、二人とも忘れてたw こないだ何かでふと思い出し、催促したら、日独両方送ってくれました。で、両方読んでみたんですが。

 ドイツ語には14本収録されているのに、日本語は12本。ごく短いのがひとつと、最後の30ページ(他の作品の倍~それ以上)のいちばん長いのが抜けてました。そしてまた、たまたまかもだけど、この二つがとても面白かったので、紹介しようと思います。短いほうは、今自分がハマってるバヨ練習と重ねて、長いほうは子供のときの自分と重ねて、そして言語と音楽という点からも思うところがいろいろあり。

 

 短編集としても全体の流れが関係してくるので、まずざっと他の作品について。

 最初の『開いた窓』(邦訳では『窓をあけて』)は、母を亡くして、父が連れてきた恋人と初対面する少女の話。コルドンはケストナーの伝記も書いていますが、ケストナーにも同じ状況を描いた短編があり、その女性が女の子のところへやってきて話しかけるパターンも同じ。不思議なことに、邦訳には原文にない一文が書き加えられており、タイトルと絡めてそうした方がよいと訳者のかたが思われたのかもですが、タイトルは物理的な窓ではなく、閉じていた子供の心の窓を開けた、と私は解釈したので、ちょっと……?でした。

『飛んでみたいか?』は、空港で掃除夫をしている少年の話。自分の聖人の日に、父が喜ばせようと張り切ったプレゼントにがっかりしてしまう。でも父の気持ちを汲み取って、受け入れます。

 三つ目は表題作の『人食い』で、これはなるほどタイトルにするにふさわしい作品です。ビルに住みつく外国人たちを「人食い」と罵る人たちに、少年のころを思い出す主人公。当時家族を失って一人暮らしだったアル中の男を、友人は「人食い」と呼ぶが、主人公は最初怯えたものの、仲良くなって彼のところに入り浸るようになる。が、ある日同年代の友人たちと遊びに夢中になり、帰宅が遅れて行方不明だと騒ぎになってアル中の男が疑われ、疑いが晴れても少年たちを連れ込んで何をしているのかと非難されるようになり、結局その男は界隈から姿を消してしまった、という話。こういう、社会からのはみ出し者を扱うテーマ、私は弱いんです。そういうはみ出し者を「人食い」と呼ぶ人間たち。いったい、どちらがどちらを食っているのか? 

 その次は、孤児院でいじめられる少年の話(これはちょっと安っぽい友情もの)。次は知的障害のある妹とその兄の話で、妹が出会った女の子が上手に彼女と遊んでくれるのだが、あることがきっかけで怯えてしまい、帰っていく。障害児であっても、人の好意に敏感な妹が切ない秀作。

 

『頑固なヘンリー』

 そしてその次に、日本語にないのが来ます。タイトルはDer steife Henryで、頑固な、と体が硬い、を掛けた形容詞。

 戦後間もないベルリンの、爆撃で崩れた建物の空き地に子供たちがボクシングリングを作り、熱中し始める。主人公はまだ幼いので、眺めるばかりの子供たちの一人だった。シャーキーと呼ばれるそこらの子供たちのボスがいちばん強く、やせっぽちのヘンリーという少年が何度も挑むが、勝てない。やがて、元ボクサーだった男がやってきて、子供たちに教えるようになった。という『あしたのジョー』みたいな話なんですがね。

 少年たちは、女の子も集まってくるようになってますます張り切って、元ボクサーが隔週の日曜に開く大会でも盛り上がる。シャーキーがいちばん強いのは変わらないが、それでも挑むヘンリーが、主人公はそのうち気になってひっそりと応援する気持ちが芽生えてくる。ある晩、公園の隅でヘンリーがこっそりボクシングの練習をしているところに通りがかった。話しかけるとヘンリーは驚き、照れた様子で、「コンディションをもっとよくしようと思って……でもまだまだだ」と答える。「せめて一度は勝ちたいと思ってる?」と訊ねると、「うん、まあね。でも本当は、自分自身に勝ちたいんだ」という答え。「もうたくさんなんだ、周りのやつらから、お前にはできない、無理だ、お前は体が硬すぎる、っていつもいつも言われるのが」。この「体が硬すぎる」というのはコーチをしている元ボクサーが言っていたことでもあり。ヘンリーはさらに続けて言います。

「それにね、ウソだと思うかもしれないけど、俺、いつも負けてても、それでも楽しいんだよ」

 ここでもうねw あーーーーーわかるーーー!ってなっちゃったんですよねw 何が、とはあえて言いませんw

 そしてこのあと、コーチはちゃんとしたジムに雇われることになり、子供たちの相手はできなくなるが、本気でやりたいやつは一緒に来い、という。しかしシャーキーを始め、ほとんどの少年たちはもう飽き始めていた。行ったのは結局ヘンリーともう一人だけだった。

 それから5年ほどして、主人公はニュースで、ベルリンボクシング大会で優勝したのがヘンリー何某という名前だと読む。あのヘンリーだろうか? 体の硬い/頑固なヘンリー? 主人公は窓を開けて、未だにがれきの空き地のままになっている場所を見下ろしながら、考える。こんなに年数が経っているのに、このニュースが嬉しいなんて妙だなあ、と。

 ヘンリー、君は若かったから、頑張ったらちゃんとモノになったんだねえ、よかったよかった。私はモノにならなくてもいいから、楽しいから、頑張るよ。

 

 次の話は壁があるころのベルリン(この本の出版は1988年で、この話の主人公の子供たちは「壁はいつもあったし、いつまでもあるだろう」と思っている。まさかそう書いた翌年に壁が崩れるとはコルドンも思ってなかったでしょう)。壁の向こうの子供たちに、屋根の上から手を振る兄妹と、それを見て怒鳴る国境兵。いつ撃たれるかとハラハラしましたが、さすがにそこまではいかないけど、交流はできなくなるという切ない話。

 その次もやるせない内容で、お祭りの射的で何年も前から欲しかったピエロの人形をやっと自力で射止めて手に入れた少年が、それをいじめっ子に踏みにじられてしまう。おまけに、家に帰ると両親までがそれぞれのやり方で心ない発言をしてとどめを刺してしまう……。でもこういうことってあるよね、と思わせてくれる作品。

 ここまでいい作品が続いていたので、その次は猫がタイトルになってるのもあって期待しすぎたか。ギリシャに旅行に行ったドイツ人家族。女の子が猫に釣られて盲目の男の子と知り合い、言葉は通じないけど、そのお母さんにもお昼をごちそうになって、きっかけになった猫をもらって帰る。ああ、また両親が心ないことを言うんでは……と心配したら、なんかやたら物分かりがよくて、あれ? 前の作品の埋め合わせしようとした? でもちょっと薄っぺらい……。

 そのあとは、転校したばかりで意地悪を言う同級生と対決する話、クラスの目立たない少年がお父さんからもらった小遣いだと言って大盤振る舞いをして人気者になるが実はそのお金は……という話、手術を受けることになった少年の不安を描く掌編、引っ込み思案で、クラスの子からお金を盗んだと思われいじめられる女の子の話、と続き、日本語版はここで終わりなんですが。

 ドイツ語では最後のが力作。

 

ラヴァンへの贈り物

 父親が仕事でインドに行ったので、あとから母と一緒にインドに向かった少年アイケ。到着したインドはちょうどモンスーンの季節に入ったところで、毎日すごい雨ばかり。ドイツ人コロニーに住むが、周囲のドイツ人たちはこの季節は皆里帰りしていて、誰もいない。もううんざり。というあたりで、もうね、自分の子供時代を思い出してw うちも父が仕事でドイツに行き、母と私と弟は数ヶ月遅れて行きました。が、私は最初はドイツなんか行きたくなかったw 行ったら行ったで、もう日本には帰りたくなかったんですが、2年後には帰らなきゃなりませんでしたけどね。

 さて、インド人のメイドのアーシャというのが家に住み込みで働いてるんですが、彼女が最初にアイケに木彫りのゾウをプレゼントして、アーシャが「ありがとう」と言います。父親はそれを説明して、インドではそれをプラサードと言って、もらった人ではなく贈った人が礼をいうのだと教える。

 ある日門の前に三人のみすぼらしい子供たちがやってくる。物乞いだ! と気付いたアイケはお母さんのところに走っていって小銭をもらい、その子たちにやります。それからその子供たちは、ときどきやってくるように。

 ある日、アイケが庭仕事をするためにシャツと腕時計を塀の上に置いて働いていると、また子供たちが来たので小銭をやりますが、そのあとで腕時計がないことに気付く。アイケはショックを受け、母親は信じられないモラルねと呆れますが、父親はそんなところに置いたお前が悪い、と。まあ私も、塀の上に置いた、という時点でヤバいなと思いましたw メキシコもインドも、その辺は同じ。

 モンスーンの湿度がひどいせいで、アイケは病気になります。寝ていると、アーシャが彼を連れ出し、雨の降る中、物乞いの子供たちのいるところまで連れていく。そこはゴミの山で、ゴミで作った雨よけに潜む子供たち。アーシャが何かを子供たちに叫び、非難している様子。たぶん腕時計のことを言ってるんだろうけど、もういいんだ、あれはプラサードなんだ、と言っているうちに、アイケはさらに具合が悪くなって、帰宅してから高熱。アーシャは、アイケの病気が時計を盗まれたせいだと思って、よかれと思ってやったことだったのに、激しく後悔します。

 高熱の夢のなかで、アイケは、自分が周りの人間と話そうとしても声が出ず、泣きたくても涙も出ない、という状況を体験。ようやく回復して目が覚めて、英語じゃなくてここの人たちの言葉を習いたい、と言い出す。夢のなかで声が出なかったのは、言葉が通じないから。それなら英語でいいでしょ、と母親は言うが、それではダメなのだ。

 アーシャはカルカッタ出身で、ここはボンベイで、それぞれ言葉が違うが、アーシャは多少はボンベイの言葉マラティーもわかる、それで物乞いの子供たちにも話した。というわけで、アイケはドイツ語→英語→マラティー語という回り道で言葉を習い始める。モンスーンの季節は終わって、周囲のドイツ人家族も戻ってきたが、アイケは彼らとの交流より言葉の習得に熱心。

 さて、ある程度習得したアイケは、大人の同伴なしにコロニーを出てはいけないと言われていたが、一人でこっそり抜け出し、子供たちのところへ行く。いちばん歳上の少年にはナイフ、下の女の子二人には人形とパズルをプレゼントとして持っていく。子供たちは最初、アイケを見てひるむが、アイケが片言のマラティーで話しかけ、これはプラサードだと言うと、驚きながらも打ち解けてくれる。少年の名前はラヴァン。友達になりたい、と必死のマラティー語で言うアイケに、ラヴァンは、もう友達だろ、プラサードをくれたんだから、と。この、片言でコミュニケーションをとるシーンは本当に感動的。

 家に帰ると両親はもちろん、一人で危ないところへ出かけたことに怒ったが、事情を説明すると、納得し感心もする。お母さんが言う、「人間にとって最高のプレゼントは、誰かがその人と話すために言葉を学んでくれるっていうことかもしれないわね」。

 アイケはそれを聞いて、自分が買って持っていったプレゼントは必要なかったのだと思う。間違いだったとさえ思うけど、私はまあそんなことはないと思うよ? ラヴァンはそのあと、それをちゃっかりといい値で売ったと言ってたし!? でも確かに、いちばんの贈り物は、物よりも、コミュニケーションそのもので、プラサードというのもどちらにとっても嬉しいものとしての、物よりもそのあげたいという気持ち、なのかもね。

 言葉、特に外国語を学ぶことって、ああやっぱりいいなあ、としみじみ思った作品でした。まあついでに、音楽もある意味万国共通の言葉の一種と思えば……? これもまた、人に聞いてもらってなんぼ、かもなあとか思ったり。

 

 ギリシャの猫の話も、ドイツ人家族が外国へ行って、苦労しながらのコミュニケーションという話でしたが、ページ数も違うからかもだけど、なんかね、ちょっと上から目線な感じがしちゃったんですよね。その前のがひどい両親の話だったから、ギャップが大きすぎて違和感があっただけかもしれませんが。

 しかし全体としては、いい話が過半数だったと思います。日本語は、ドイツ語といちいち照らし合わせると、ちょっとなあと思うところもありましたが、これだけ読めばそういう話だと思えて特に問題ないのかも。

 

 興味あるかたは是非どうぞ。