去年友人が送ってくれたこの本、読みました。
P(Performance、演奏)= p(potential、能力)ー i(interference、障害)
という演奏の方程式で、iを最小限に抑えることで、Pを最大限にするための方法論です。まー私の場合はもともとのpがミニマムなので、あんまり役には立たないと思いつつ、レッスンのときにせめて家で弾けてるくらいのレベルになりたいな、とw
しかしね、やはりこれは、そこそこ弾ける人が舞台で緊張しちゃって~、とかいうときのための本なので(「演奏家のための」だし)、私レベルでは、「自分を信じて、心を解放して、そうすればあなたの手が、指が、勝手に素晴らしい演奏をしてくれます!」とか言われても、いや、やっぱ無理やろ……と思ってしまいますわなw
とはいえ、緊張をほぐして、本来の自分(セルフ2とこの本では名付けられている)を解放するために、さまざまな面からのアプローチが書かれていて、自分ができるかどうかは別として、一流の音楽家はこんな感じで演奏してるのか、とかそういうのがわかる面白さは充分ありました。
ただ、そんなレベルの話でも、どうにか自分に当てはめつつ読んでいると、いくつか気になるところもあって。
自分の感情を表現すること
これは私の先生もかな~~り初期に言ってて、大事なこと、初歩の基本の基本なんだろうけど。
演奏する音楽に、自分なりの解釈、イメージ、感情をこめなければならない、という点。まあそれはわかります。
が、この本ではその第一歩(これだけじゃないけど)として、演奏している自分のうちに湧き起こる感情をじっくりと見つめてください、という。そりゃあそうだよね、うん、そうなんだけどね。
私は、もともとあんまり自分の内部とか感情には興味ない人間だ、というのが、この生きてきたン十年でわかっているつもりで。だから小説とかでも、あまりに個人的な感情についてこまごまと書かれたものよりも、センス・オブ・ワンダーを味わわせてくれるSFとかのほうが好きだったし。もちろん、いちおう人間だから感情はあるし、それが波立って落ち着かないこともあるけど、そういう場合はたいていよそに意識を向けて逃避することで乗り切るタイプ。まあ演奏のときの自分の感情ってのは、ネガティブなものよりポジティブなほうが多い気がするから*1、見つめるのがイヤなわけではないけど……苦手かもな。
そして、その自分の感情を素直に表現する、ということも苦手です。相手にもよるけど、いわゆる音楽家が一般に演奏する場合の聴衆は不特定多数なわけで、そういう人たち相手に自分の感情? 無理むりムリ……ってなるよねw いや、もちろん一流の音楽家なら、美しく感動的な感情=音楽を披露するわけで、それは喜んでお裾分けもらいたいけど、私のなんて誰もいらんでしょw まあここはレベルの問題か。
しかしとにかく、そういうものを披露したいと思う人間ではない私が、楽器演奏をするってのは意味あるんか!? とちょっと思ってしまうわけです。
音楽家は演じる芸術家
さらに読んでいると、第6章では、こういう言葉が出てきます。自分の感情を、という上の話とちょっと矛盾してるようでもあるけど、
俳優や女優のように、音楽家は演じる芸術家なのです。(p.99)
俳優かぁ……。演じるのも苦手なんだよなあ、私。
確かに言われてみると、俳優と同じなんだけど。脚本(楽譜)があり、そこに書かれているものを舞台の上で観客に披露する。作り手と受け取り手のあいだに立つ位置。
日本のバヨ先生が、違うところで、翻訳家にも通じる役割、というようなことを書いてらして、あ、それもなんかわかる! 作曲家、それもほとんどは日本人ではない人が書いたものを、自分なりの言葉(音)で表現する。そこにどうしても自分の解釈も入りこむし、入るべき、なのは上に書いたことと相通じるし、作家と読者のあいだの橋渡しという意味でも同じ。
しかしね、そういうふうに考えていると、バヨってたいていは主役級なわけですよ。そこも引っかかるポイント。
これはもう前から思ってたんだけど、プロのバイオリニストの女性ってだいたいみんな美人なんだよねえ~。自分の見せ方を心得ているというか。たぶん職業柄、見られることに慣れていらっしゃる。内心はどうあれ、自信にあふれてキラキラと輝いていたり。
しかしだ、私はそういうタイプじゃないw 隅っこで目立たないでいられたら万々歳。そりゃね、メロディ楽器は好きですよ。和音とかわかんないし、歌うときはソプラノだからたいてい主旋律だしね。でも、性格で楽器を選ぶなら、やっぱ打楽器とかw 弦楽器ならコントラバスとか? もちろんこれらの楽器を甘く見ているわけではありませんが。コントラバスでもソロはあるし(この本の作者はコントラバス奏者だそうで、そういうエピソードもいくつも出てきます。ズュースキントの『コントラバス』は面白かったし、ドイツで舞台を見にも行きました)、打楽器だって目立つときはめっちゃ目立つw
また話脱線しますが、私、子供のころからテストとかでもあんまり緊張しない子でした。失敗しても自分一人の点数が悪いだけだしw 受験だと、第一志望に行けなくて私学に、とかになると親に経済的負担がかかったわけですが、まあそこまで考えてなかったしなw 高校受験のときなんか電車が遅れてぎりぎりで駆け込んだけど、息切れ、汗はかいてたものの、どうしよう、ヤバい、とかはまったく思ってなくて、しらっと受かってたのでノープロブレム。そんな私が生まれて初めて緊張を経験したのが、高校ブラバンの文化祭での舞台でしたね。そもそも自分のパートをマスターしたとは言えない出来、その上に自分が失敗したら自分だけ恥をかくのでなく、ブラバンの演奏自体がぶち壊しになる、ってのが怖かったなあ。失敗しましたけどw 今思えば、なんで出来なかったんだ?ってな単純なことだったんですけどね。
しかしともかく、それやあれや考えてると、バヨって私の性格に似合った楽器ではないよな、ってしみじみ思っちゃうわけで。なんでバヨ選んじゃったんかね? そりゃーメニューインとか聞いて好きになったからなんだけどもさ……。
しかしまあ、こんなことをチラッと書いたら、日本のバヨ先生(この本とっくに既読)が、
この本にあることは正しいけど、一流になるための向き不向きであって、二流以下はこれにあてはまらずを知っている上で 仕事にしている人はわんさといる
と、とーーーっても励みになるお言葉を。そっか、プロでもそうなら、私程度のお遊び演奏でも許してもらえるかな……。そもそも「演奏家」になろうとは夢にも思ってないしなw
そう考えれば、そもそもプロになる当てもないのに楽器を習ってどうする!? という疑問に行き当たるわけで、でもそれは、いいのだ、楽しいからいいのだ。
還暦すぎたダンナがドレミも知らない状態からピアノ習ってたって、一生知らないで終わるよりはずっとマシだし、音楽を聴くことは好きな我々が、演奏をちびっとかじることで音楽について別の面から知る楽しみもあるわけだし。ボケ防止にもなるしw
そんなことを返信していたら、先生、この本にも出てたけど、アマチュアの語源について、と。そうそう、ありました!
「アマチュア」とは、「非プロフェッショナル」とか「ただ」という意味の言葉になりつつあります。しかし、この言葉はフランス語のaimar(愛する)から生まれたもので、本来は自分のしていることを「愛する」人を意味しているのです。(p.81)
こんなふうに、こちらを的確に励まし支えてくれる言葉をかけてくれる先生こそが、本当にプロフェッショナルだなあと感心します。
この本でも、大半は音楽を学ぶ学生やセミプロ向けだとしても、一部にはちゃんと、大人から始めた人や趣味レベルの人に向けた言葉もあり、音楽そのものについても演奏だけでなく、教えることや音楽鑑賞、作曲に至るまで、とにかくきめ細かいところまでカバーした良書でした。
読みながらこんなふうにあれこれ迷ったりもしましたが、もちろんそれじゃバヨ辞めます、てな訳はもちろんなくw
自分の感情をご披露するのはイヤだけど、イメージでもいいんなら*2、たとえば私なら、すべてのメロディを動物にしてしまうとかもできるよなw 画家が自分の得意なモチーフをそれぞれ持つように、音楽でも偏った解釈してもいいんでない? プロでもないなら、なおのこと。
感情ではなくても、具体的なイメージを思い描きながら演奏することで、音がどう変わるか、それもまたこれからの練習でやっていこうと思います。