今日はちょっと(また)古い本の話を。
- 作者: リチャード・バック,Richard Bach,村上龍
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1981/03/20
- メディア: 文庫
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去年から、ずーーーっと30年以上も実家に置きっぱなしだった本をようやく一部(でも相当数)手に入れて、読みふけっているわけだが、新しい本との出会いもいいもんだが、旧友、じゃなかった旧本との再会もいいもんです。初めて読んだころのことをいろいろ思い出したり、当時はわからなかったところが今ならわかったり、違う解釈になったり、逆に、なんでここでそんなに感動してたんだっけ、となったり……。
で、この本も例にもれず、読みながら、あーーそうだった、とか思い出すことがいろいろ。そして、忘れられない衝撃の現実を知ったのもこの本だった。
これ、出たのは私が中学卒業して高校に入る直前だったかな。知らない作家だったし(有名な『かもめのジョナサン』の作者、でも当時未読)、翻訳者の村上龍は名前くらいは知ってたと思うけど、特に読んでたわけでもない(というか当時はまったく読んでなかった、今も何か読んだかなあ?程度。あーそうそう、『悪魔のパス天使のゴール』読んだわ! サッカーの話だから)。
たぶん、本屋さんで新刊で積んであったのをたまたま見て、手に取って、面白そうと思って買ったんじゃないかと。そして、今回読み返してて、だんだんに思い出した。これを最初に読んだとき、中学の友達が書いたんかと思ったくらい、雰囲気が(特に会話)似てたこと。
中学(ミッション系女子校)では、当時、私も含めて数人の友人が”小説”を書いてて、まあもちろんお遊びレベルだったけど、そのうちの一人、Kちゃん。ストレートのショートヘアであけっぴろげで、見た目も性格も少年みたいで、アメリカ*1が大好きだった。漫画家の吉田秋生、今では代表作は『BANANA FISH』みたいになってるけど、当時の代表作は『カリフォルニア物語』で、Kちゃんはこの作品に多大な影響を受けてたと思う。中学卒業間際のころ、Kちゃんがアメリカの高校に留学したいとか言い出して、ご両親が「行くならその前に日本女性のたしなみとして茶道と華道を学んでから行け」とおっしゃったという話を聞いて、私ら友人は、茶道華道とKちゃんのイメージの齟齬に爆笑したりもした(結局留学はしなかったと思う。その後はどうだかわからないけど)。
というわけで、いわゆる古き良きアメリカを描いたようなこの『イリュージョン』を読んで、Kちゃんを思い出したのは無理もないことだった*2。主人公(ジプシー飛行機乗りで、自分の小さな飛行機であちこち行っては10分3ドルでお客を乗せて空を飛ぶ)が救世主たるドナルドに出会ったときの会話とか、いかにもKちゃんが書きそうだった。いや、ホントは逆で、Kちゃんがこういうアメリカンユーモア大好きだったんだけどね。
ドナルドを初めて見かけた主人公リチャードが、
……僕は自然に手をあげてしまった。なぜだかわからない。十ヤード離れたまま声をかけた。
「やあ。君がなぜか寂しそうに見えたんだよ」
すると、彼は柔らかい声で答えた。
「君だってそう言えばそう見えるぜ」
「じゃまかな? じゃまなら消えるけど」
彼は、少し笑って言った。
「いや、待っていたのさ、君をね」
それを聞いて僕も微笑みを返した。
「そうかい。遅くなってごめんよ」
村上龍もあとがきで引用しているこの箇所。今読むと、あーありがちなアメリカンな会話だな、くらいにしか思わないけど、当時(ってこの単語出すぎやろ今回)はこういうのがなかなか新鮮だったのだ。
さて、つまりこんな雰囲気の小説で、このドナルドってのが同じジプシー飛行機乗りなんだけど、兼業救世主で、主人公と仲良くなってしばらく一緒にあちこち行く。小さな奇跡を起こしたり、この世界はイリュージョンだと言ったり、主人公にも救世主になるための練習を指導したりする。意味のあるようなないようなシーンや台詞が満載で、それこそ聖書のように折りに触れて読み返すと学ぶところもありそうな、そんな作品。
高校生になりたての私が読んだとき、どうしてもわかりそうでわからないところがあった。割とはじめのほうで、知り合った二人が一緒にお客を乗せる仕事をしていたところへ、孫娘を連れたおじいさんがやってくる。乗りたいのはおじいさんで、主人公が乗せて飛ぶ。そのあいだ下で待っていた娘は、おじいさんが「洪水が来ておぼれ死ぬとしても屋根には上らん娘だ」と言ったくらい高所恐怖症だったのに、ドナルドはその子を飛行機に乗せて飛び、降りてきた孫娘は大興奮で喜んでいた。二人が帰ったあと、主人公がドナルドに、どうやってあの子を説き伏せたんだい、と訊くと、
「あの娘は一度空から落ちて死んでるんだ。それを思い出させただけだ。だからもう落ちることはないよって教えただけさ」
というのがドナルドの答え。うーーーーん。今読むと、最後を「だからもう死ぬことはないよ」に読み替えてすんなり納得できそうな気もする。けど、当時はわからなかった。気になって、何度も読み返し、友達とも頭をひねってあれこれ議論した。
んで、またまたずーーーーーっと時間が過ぎて、メキシコに来て間もないころ。大学のスペイン語コースで仲良くなった日本人女性が、この本の大ファンだった。あーー懐かしいね! って話をしてて、このエピソードを思い出して彼女にも疑問をぶつけてみたけど、そんな瑣末事を気にするタイプではなかったみたいで、え、そんなのあったっけな、とあっさり。で、彼女は英語の原本も持っているというので、それを借りてみた。英語はろくにわからんが、一度読んだものだし、そこだけでも確認してみたかったので。
そこで知ったんだよね、衝撃の事実を。ドナルドのそんな台詞は……なかった!
最近になってネット検索すると、これはすでに有名な話らしくて、”忠実な日本語訳”も出ている様子。
同じ集英社。まさか、原作者から苦情が出たとか!? それらしい話は、特に見当たらなかったけど……。
読み比べてみたい気もするけど、部分的に二つを並べてくれているところもあって、私が村上訳に慣れてしまっているからかもしれないけど、この新訳のほうはなんか味気なく感じてしまって、脳みその表面をつるつる滑ってどこかへ行ってしまう。
だけど、だけどですよ? 翻訳の良しあしと、ありもしない文章を捏造して付け加えるのとは別の話。いくら(?)村上龍だからって、そんなことしていいの!? それをするならするで、「リチャード・バック+村上龍・共著」とかにしないと!!
で、今回、30数年ぶりに自分の本で、当時を思い出しながら通し読みしていて、でもあのころは知らなかったこの事実を知って読むと、意味深な台詞やなんか、全部これ、リチャード・バックなの? それとも村上? と疑ってしまう。村上龍のファンで彼の作品(自作品)をたくさん読んでる人なら、あーここ村上っぽいね、とかわかるんだろうけど、私はぜんぜんと言っていいくらい読んでないしね。
あーーー、そうか、ドナルドが言ってた、この世はイリュージョンってそういうことか! ってのを、もしかして村上龍は身をもって(?)教えてくれようと、こんな無茶をしたのか!?
「イリュージョンだ、リチャード、この世の全てはイリュージョンだ、何から何まで光と影が組織されて、像を結んでいるだけなんだ、わかるかい?」
さて、この言葉はリチャード・バックのものか、村上龍か? すべてはイリュージョンなので、それもどうでもいいことなのだw
とは言い条、 やっぱり英語と厳密に突き合わせてみたい気もする。でも英語そんなにわかんないから、せめてドイツ語やスペイン語ではどうなってるのか、見てみたい。こういう話、メキシコではけっこうウケるんじゃないかなと思って探してみたら、意外とそうでもないようで、あんまり売ってなかった。聖書のパロディみたいなもんだから、不謹慎だと思うのか、自分のやりたいようにやればいいって主張なんか当たり前すぎて、わざわざ本一冊書く? って思うのかw
ドイツではそれなりの人気だったのか、今も売れてる様子。そのうち手に入れて、読み比べてみようかなw