気まぐれエッセイ@メキシコ

不定期に適当な文章をつづっていきます(現在バヨ中心)

飛行機の旅は波乱万丈(1)二十歳初の一人旅編

 今でこそ、飛行機での旅は割と普通です。メキシコも、米国ほどじゃないけど国内旅行で飛行機ってのは普通だし。何回飛行機に乗ったか、もう数えきれない。

 でも昔はやっぱり飛行機ってすごく特別な移動手段だったし、普通になった今でも、何かとトラブルがあったり面白いことがあったりするので、そんな話を何回かに分けて、つらつらと書いていこうかと。

 

 

 生まれて初めて乗った飛行機は、たぶん小学校低学年のときに親の仕事の都合でドイツに2年滞在したとき。父親が2ヶ月ほど先に行って、母親が小学校1年終わった私と幼稚園児未満だった弟を連れてあとから。私は、学校の友達とかいたから別れたくない、ドイツなんて行きたくない!!と叫んだが、不可抗力。んで、行ってみたら楽しくて、子供だからドイツ語もそこそこのレベルにはすぐになって特に不自由を感じることもなく2年過ごし、今度は日本に帰りたくない! と叫んだ……。

 いいやん、このままドイツにいようよ~、と言ったら、父親が、でも2年契約だったから残っても仕事なくなるで、父さん乞食せないかんようになるで、と言うので、乞食したらいいやん! と言い放った。けど、不可抗力で日本に帰った。その往復が最初の飛行機体験だったはずだけど、そこは親に連れられてだから、機内でおもちゃもらったとかそんなことしか覚えてない。

 

 その次に乗ったのは、たぶん20歳のとき。日本の大学を2年終えたらドイツのギムナジウム卒業に相当するので、そこでドイツの大学に留学ってことで、今度は一人で飛行機の旅。

 出発の前の晩に、父親が部屋に来て、何を言い出すかと思ったら、「お前、ドイツの空港に着いたら、もうドイツ語しか通じひんねんぞ。どないすんねん?」って。子供のころペラペラ(子供レベルでだけど)だったドイツ語、忘れるわけないやん、と思ってたら、日本帰ったらあっという間に忘れて、まあ留学しますってなってから一応勉強はしたけど、日常会話もろくにできない程度だったから、心配だったのはわかるけどねえ。前日にそんなこと言われてもねえ。

 とにかく、子供のころの友達の家族が空港に迎えに来てくれて、小学校時代の先生の家に下宿させてもらえることになってたし、そりゃみんなドイツ語しかしゃべらない人たちだけど、辞書引き引き何とかなるでしょ。

 てか、どないかするしか、しょうがないやん? そういうところでは、私はまったく心配しないタイプで、父親とは正反対だったので、そのときも、は? で終わった。

 

 とはいえ、やっぱりね、いざ一人で飛行機に乗ってドイツに向かうとなると、緊張はしますよ、緊張は。大阪から東京に向かう飛行機で、隣になったサラリーマン出張っぽいおっちゃん二人が、途中で話しかけてきた。まあ私、そのころ20歳、でも童顔だったと思うんだよね。どのくらい童顔かっていうと、中学に入学した日、よそのクラスからひょろっと背の高い子がやってきて、「〇子ちゃんでしょ?」と言う。そうだけど……と戸惑うと、「大谷幼稚園で一緒だった、〇〇だよ~。〇子ちゃん、ぜんぜん顔変わってないから、すぐわかった!」と。幼稚園児の顔した中学生だったのだ、私。そしてたぶん、大学生になってもたいして変わってなかった。

 だから、おっちゃんたちが「あんた、ひとりなんか」と不思議に思ったのも無理はない。一人でどこ行くねん、ドイツ!! へえ~! とかなんとか、訊かれたら素直に答えちゃう私は、今ならヤバいことになってしまう子供だったかもしれん。まあなんかいろいろ訊かれて、最後に、「帰ってくるときおっちゃんにメルセデスベンツ買ってきて!」と言われたことだけ鮮明に覚えてます。おっちゃん、ごめんな、ベンツ無理やったわ~。

 しかしここはまだ国内線で日本語も通じるし、問題ない。そんなに緊張はしてなかった。本格的にヤバくなったのは、ルフトハンザでドイツ行きの飛行機に乗ってから。

 日本発なんだから日本語通じるだろ、と思ってた(父親だって「ドイツの空港に着いたら」って言ってたし!!)。ところがスチュワーデス(当時はスチュワーデスだったんよ、私の頭のなかはいまだにスチュワーデスさん)たちは全員ドイツ人。そして、悪いことに、私の席はエコノミークラスの1列目だった。両側を通路に挟まれた真ん中4席の、右端。隣は5歳くらいのくるくる金髪めっちゃ可愛い女の子を連れたドイツ人夫婦だった。

 んで、私の席はすべてのサービスがいちばんにやってくるのだ。最初に、ヘッドフォンを配られた。ところが、だな……。それまで親に連れられてしか飛行機に乗ったことのなかった私は、それが無料だと知らなかったw 当時はクレジットカードとかもなかった(あったかもしれんが私は持ってなかった)から、手持ちのドイツマルクと、ドルを持ってたかなあ。円も持ってたかもしれない。その辺はよく覚えてないが、とにかく。まだまだ先の長い旅で、何があるかわからない。持ってきたお金が足りなくなったら困る! 

 と思った私は、差し出されるヘッドフォンを、いりません、と手を振って断ったwww 困惑したスチュワーデスさん、いえいえ、受け取ってください、と差し出す。いーえ! けっこうです! と断固固辞する私。いいからいいから、いらないったらいらないです、の押し問答が続く。根負けしたスチュワーデスさん、じゃあここに入れときますね、と(最前列の席だったから)壁についたポケットに。まあ封を切っていなければ使ったことにならないから、大丈夫だろう、と、私はその袋を決して触らないように距離を置きまくったw

 それが済むと、今度は飲み物がふるまわれるわけですが。ここも同じ。20時間の飛行機のなかで食事をしないわけにはいかない。でもきっと、レストランよりも割高なんだろうなあ、いくらくらいするのか、ちゃんと事前に訊いておくべきだった(← 有料だと信じ切っている20歳一人旅)、でもそれ以外はとにかく節約しまくらなくては!! 

 しかしここで、隣の夫婦が飲み物をもらってお金を払わないのを見たんだと思う(ヘッドフォンのときは、根負けされたあとでもいいから、気付かなかったんだろうか? その辺よく覚えてない)。でもでも、飲み物はただでも食事はわかんないよね……って、食事を削るわけにはいかないから、黙って受け取って、お金請求されなかったので、その辺で懐疑的二十歳一人旅の疑いも徐々に晴れていった。

 とにかくそんな感じで、すでにぐったり疲れてた私を見ていた隣の若夫婦、見かねて話しかけてきた。話しかけてきたってドイツ語なんだけどさ。いや、たぶん英語話しますかって訊いたと思う。が、英語だってドイツ語とどっちがマシかわからんレベル。ましてやこれからドイツで生活するにあたって、英語をしゃべってたらドイツ語が上達しないってのは明らかだったので、英語はいっさいしゃべれない設定で、その後も押し通したので、そのときも英語ノー。

 ところがその若夫婦、若いのに何者だったんだろうか。小さい娘さんを連れて、しょっちゅう世界のあちこちに旅行している、つまり飛行機の旅なんて車でその辺ドライブ行こうか、ってくらい乗りなれている人たちだった。5歳の娘のほうが、私よりよほど飛行機慣れしてて、緊張しまくってる私を不思議そうに見上げてるくらいw

 だもんだから、娘のついでみたいに私の世話もしてくれることになって、しかもストックホルムだかどこだかで乗り換えてデュッセルドルフまでの便だったんだけど、その人たちデュッセルドルフ在住。いやもう、どんだけ助かったか。乗り換えのときだって、私一人だったら、どうなってたかわからんw でもとにかくその人たちにピッタリくっついて一緒に過ごしてもらって、たぶん(さすがに空港内での飲み食いは有料だからw)なんかおごってもらったりして、写真一緒に撮って(当時は現像するフィルムのカメラだった)、ドイツで何か困ったことあったら連絡しなさいと、連絡先までもらった。「四角」さんみたいなすごく変わった名前の人だった。が、ホント助かったので、そこから先の旅の記憶はほとんどない。人間、緊張してると記憶力めっちゃ上がります。

 

 ところで私、このときドイツのビザを持たずに行ってた。大学入学の手続きを前もって日本からしてたんだが、ああいう書類ってめっちゃ難しい。辞書で単語をすべて引いても、意味がわからん。どうにか書き込んで送って、日本の大学2年終了する4月から行って、半年ドイツ語のクラスに参加して、10月から生物学の勉強を始める(ドイツの大学は10月始まり)予定だったのに、生物学は10月からですから来学期にもう一度申し込んでください、との返事が来た。それはわかってるって! でもその前にドイツ語のクラスに行かなきゃいけないんだから大学に在籍してないとビザ取れないでしょうが!

 と言ってももう時間がなかった。で、母親が、「もういいやん、滞在許可3ヵ月(いや、2ヵ月だったか?)切れたら日本に帰ってきたら。それまでにあっちでビザ取れるよう手続きしておけばいいし」と言うので、それ、ものすごい贅沢なやり方だったけど(当時は飛行機なんてそんなにぽいぽい乗るものじゃなかったからね)、そうすることにして、ビザなしで行ったのでした。

 で、大学には父親の元同僚だった大学教授がすごい偉い人だったらしくて、その人に頼んでドイツ語クラスにねじ込んでもらい(大学の外人局の人が、その教授がいないときに、別の人から「いいんですか」とか言われたらしくて、「だってしょうがないだろ、R教授の口利きなんだから!」とちょっとキレ気味に答えていたのが、当時の私にもわかったんだけど、そのくらい無理やりねじ込んでくれたらしい。ちなみにこの外人局の局長さん、数年後に道端で出会って、奥さんを巡る家庭内騒動の話をこんこんと聞かされたことあり、これもそのうちネタにするかも)、その大学在籍証明書を持ってビザを発行してくれと市役所に頼み込みに行くのは、私の小学校同級生のお母さんですごく世話好きな人が一緒に行って頑張って交渉してくれたが、手続きはこっちでしてあげるけど、受け取るのは当事者の国(つまり日本)のドイツ大使館(もしくは領事館)でないとダメです、とそこだけは譲ってもらえず。まあしょうがない、いったん帰国する予定だったし、それはもういいよ、ってことで、日本に帰ったらすぐにビザが発行してもらえるよう(普通は申し込んでから1ヵ月とかかかるところを、そこは便宜図ったよと)都合してくれた。

 結局、ツーリストの身分で滞在できる2ヵ月だか3ヵ月だかの期間をちょっとだけ超えるので、またまた別の知り合いに、車でオランダへ連れてってもらって、国境で、いいからいいからそのまま通って、と言う国境警備員に、いえいえ、お願いですからここに通過した証明のハンコを押してください、と頼んで私のパスポートにハンコを押してもらって、いったんドイツを出てまた入りました、との証拠をゲット。当時は(ていうか私がいたころのドイツは最後まで)EUじゃなかったからねえ。でも、国境なんてそんな感じでコントロールもなく、みんなすいすい通り抜けてた。

 さて、そんなこんな苦労を重ねて、ついにビザを取るために日本に戻ることになって、デュッセルドルフ発の飛行機だったので、来るときお世話になった若夫婦の四角さんに連絡した。できたら空港でお会いできませんかと言ったら、行きますとのことで、奥さんと娘さんは来られなかったけど、おじさんだけ来てくれた。で、なんでそんなすぐに日本に帰るのかの説明、私のドイツ語では無理だったところ、交渉に頑張ってくれたおばさんが空港までも送ってくれて(迎えに来てくれたのも彼女の家族だった)、一緒にいたので、四角さんにとうとうと説明。そしたら四角さん、困ったことがあったら連絡するようにって言ったじゃないか、と言う。おばさんは、ちょっとむっとして、いえいえ、でもこれ以上のことは無理だって言われましたから、と。でも四角さんは、まあなんにでもいろいろと抜け道はあるんだよ、と意味深な発言。

 そのときはもうどうしようもなかったから、そうだったんですねえ、で話は終わったけど、ホント、この四角さん、いったい何者だったんだろうねえ?

 その後も、四角さんからは世界中のいろんなところからちょいちょい絵葉書が届いてた。まあそのうちだんだん疎遠になって、やがて音信途切れたけどね。私もあんまり筆まめじゃなかったし。でももしかしたら、あの若さですごい人だったのかもしれないなあ、と今でもときどき思うのでした。

 

 で、このときの日本に一旦帰国の飛行機も、乗ってびっくり、なことがあったんだけど、それは次回に。